境界線・2

2002年5月16日
けれど、その夜は違っていた。
昨日の晩新宿で知り合った女の子とホテルに消えたところまでは知っている。
あたしはいつも通り独りで部屋に帰り、ハードカバーの文字を眠りに落ちる直前まで辿ってやりすごした。
そうでもしないとまた想像してしまう自分が惨めだった。
今夜もいつもなら新しい女の子の味はどんな風だったのか嬉しそうに話し出す頃合だった。
だけどアサヒはえげつない言葉を吐き出す代わりに
「好きになっちゃったみたいなんだ・・・」
と言った。恥じらいを、頬の上に乗せて。
勿論それはあたしのことじゃない。
一瞬の錯覚だってあたしは抱きはしない。
アサヒと暮らし始めて3日で期待することの愚かさを思い知らされた。
アサヒは欲情しない相手は女の子じゃないと思っている節すらあった。
それに最も近い存在が自分なんだとキツく叩きこまれて今日まできたあたしに、今更期待の余地などありはしない。
「何よ、昨日のコ?」
胸が、淡くうずき始める。こんなアサヒは初めてだった。
今まではクールに社内連絡程度の情熱で、付き合う事になったよと報告してくれてたのに。
「ん・・・」
それきり、黙ってしまう。
あたしは小さくため息をついてアサヒの前にコーヒーを置き、差し向かいに座った。
アサヒは何度もまばたきをくりかえしながらコーヒーを一口すすった。
「昨日の子、アイちゃんだっけ?そんなに良かったの?」
あからさまに聞いてからあたしは恥ずかしくなった。
アサヒといるようになってからあたしはちょっと大胆になったみたいだ。
けれどそんな照れくささはアサヒが首を横に振った事で飛び散ってしまった。
「ラブホには行かなかった。やってないんだ」
それ自体は別に意外なことでもない。
今迄だって猫が小動物を狙うみたいに時間をかけて落とす事もあったから。
だけど今回のそれは明らかに違う。
アサヒは戸惑っていた。
そう、戸惑っているのだ。
「どんな子なの?話してよ」
いつもみたいに。
そう言い掛けた時、アサヒはふらりと立ち上がり、
もう寝るよと言い残して自分の部屋に帰っていった。
取り残されたあたしはしばし呆然としてしまう。
あれはまるで、1日経った風船だ。突つけば割れそうなくらいやんちゃだったアサヒの面影すらない。
どんな子だっけ・・・?
昨日の事を思い出してみる。
いつものバーで2人で飲んでいた。
アサヒもあたしも学生で自由になる小遣いは限られていたけれど、同居する事で浮かせた仕送りからの家賃分を二人で均等に分け合って度々ここに遊びにきていた。
チャージがないし気楽に入れる雰囲気のおかげで一見の客も結構多いところがアサヒのお気に入りだったらしい。
付き合う女の子は大抵このバーで声をかけていた。
興味本位で足を踏み入れてくるヘテロ上がりの女の子など、アサヒにとっては格好のカモだ。
一夜限りの後腐れのない関係を築きやすいし、
そうした割り切り方はアサヒの得意とするところだった。
アイと名乗ったその女の子は見た目普通の子だった。
カウンターでアサヒと並んで飲んでいたあたしの一つ空けた隣のスツールにアイが腰掛けた時、最初は気にも留めなかった。
「ブラッディーマリーを」
彼女がマスターに声を掛けた直後アサヒが立ち上がり、彼女の隣りに座るまでは。
「いい声だね」
アイは少し目をしばたたかせ、にっこりと笑ってありがとう、と言った。
こういう時のアサヒには全く舌を巻いてしまう。
計算も何も無しに相手の心にすとんと入っていける。
割と人見知るあたしには到底できない芸当だ。
そして確かに彼女は可愛い声をしていた。
あえぎ声がそのまま会話してるみたいに。
幾つか会話を重ねた後、アイがちらりとあたしを見て微笑んだ。
あたしはつられて会釈を返す。
あたしが知っているアイはそれだけだった。

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