沢木カナコ。
2003年4月15日「せんせ、昨日の質問に答えがなかったんだけど、白紙回答はズルいんじゃない?」
いきなり授業後に沢木カナコに切り出された。
俺は教材をトン、と机で揃えてからかばんに入れ、カナコに向き合う。
「俺答え入れ忘れてた?ごめんなー、|β−α|=√5で・・・」
「そういうはぐらかし方するんだ」
カナコの切り口はまるで有無を言わせない。
「はぐらかす?何のことかな」
しらを切り通そうとする俺を下からすくい上げるように見つめ、カナコは悪戯っぽく笑った。
「なるほどね、あしらい方巧いね。それよりこの前また生徒ひとり振ったって噂、ほんと?」
楽しげにカナコはにやにやと問いかける。
「やだな、俺そんなにもてないよ。今日はなに、質問?」
こっちも極上の笑顔で返すとカナコはけらけらと笑ってから言った。
「今日の2番目の問題、ベクトル使わないでこっちで解いてみたんだけど・・」
そう言ってノートを差し出す顔からはもう笑いが引いている。
「ああ、いいね。確かにこの法則も応用できるよ。敵わんな、沢木さんには。俺の授業受ける必要、ないんじゃないの?」
半ば本気で言う俺の肩にぽんっと手を置いて、カナコは微笑んだ。
「あたしの目的は授業じゃないわ。・・・判ってるくせに」
そう言って見上げてくるカナコの瞳は黒くて、濡れた様に潤んだ光を跳ね返している。
これが演技ならすごいな・・。
大抵の男ならのぼせ上がってしまうかもしれない。
ストレートロングの髪を軽く散らした今風のヘアスタイルに小さな顔。すんなり伸びた手足。コントラストの綺麗な黒目がちな瞳もきゅっと上がった口角も、そこいらのグラビアアイドル顔負けの可愛さだ。
ただ、噂だけは色々飛び交っていた。
二股かけて結局両方振ったとか、えらい年上の社会人と不倫しているとか、AVに出演していたとか。
悪意あるなしに関わらず、様々な噂がカナコの周りを取り囲んでいる。
信憑性は疑わしさこの上ないが、それだけ衆目を集めているという証明でもあるだろう。
「わかってるよー、俺に会いに、だろ?ああ、誠意は物で示してね。バレンタイン辺りに。んで質問は?なし?」
わざとおどけるように核心をつくとカナコはつられてうなずいた。
「じゃあまた明日ね。勉強しろよ〜」
ひらひらと手を振って速攻教員室に引っ込むことにした。
幾ら美少女でも生徒は生徒だ。
高校教師などよりはずっと規律は弱いが、一応年頃の子供を預かる塾講師の立場だ。
安易に誘惑にお応えすることはできない。っていうか、駆け引きがめんどくさい。
昨日の小テストの採点でもしよう。
そう思った矢先、政経の谷先生がそばによって来た。
「見ましたよ〜、例の沢木カナコに絡まれてたでしょう?」
まだ20台後半なのにビールの飲み過ぎで出すぎた腹をなでまわす姿を横目で見ながら俺はうんざりしつつ、でも一応愛想良く相手する。
「単に質問ですよ。毎回結構手強い質問してくるんです」
「へええ。僕んとこなんて来たことないけどね〜一回も。中山先生もてるからなあ。一人ぐらい分けてくださいよ」
そのねちっこい口調で延々語るから誰も質問にこないんだよ、と思いつつ俺は自分ができる最大限の笑顔で谷を追いやることにした。
「何いってるんですか。谷先生には可愛い奥さんいらっしゃるじゃないですか。僕だってお帰りなさいって迎えてくれる人、欲しいですよ。羨ましいなあ」
さり気なく持ち上げると谷はまんざらでもない顔で、まあそうですがね、なんて言っちゃっている。
照れ笑いしつつビール腹をひとなでし、谷が去っていく。
ふう、と心の中で一息ついて俺は小テストの束に目をやった。
谷にはお世辞のつもりでああは言ったけど、内心は本気で羨ましかった。
家に帰ればもちろん深久はおかえりなさいって迎えてくれる。
でもそれは恋人や妻としてのそれではない。
そして一生、永遠に続くものでもないことを自分は知っている。
深久に会いたいな・・。
家に持ち帰ってやろうか。
ぐらりと心が傾いて、何とか思いとどまった。
顔を見ればそれだけ辛くなるのは目に見えている。
バイトでハルといちゃついた話を嬉しそうに報告されるかもしれない。そんなもんを聞かされるくらいだったら車で泊まったほうがましだ。
全ての採点を終えたのは小一時間ほどしてからだった。
努めて集中していたせいで吸うことすら忘れていた煙草を取り出し、100円ライターでかちりと火をつける。
相変わらず沢木カナコが限りなく満点に近い点数でトップだ。
小テストとはいえ、国立二次試験向けのハイレベルな問題を出したつもりだったが、これなら危なげなく通るだろう。
教員室でもよく噂に上るが他教科でも同じくらいの出来だというから驚きだ。
俺は心から感心した。
数学バカの自分には到底真似できない快挙だ。
帰ろうと思い煙草の火が消えたのを確認すると
周りを見渡した。気がつけば全員帰ってしまったようで教員室はしんとしている。
鍵を守衛室に預け、駐車場に向かった。
いつもはビルの中を通り抜けて車まで出られるが今日は遅いから表から回り込まなければならない。
10時過ぎていたが、駅からそんなに離れていないこの辺りはそれなりに賑わいを見せている。
向かいのビルに入っているコンビニは明るい光を放っているし、人通りは深夜になっても途切れることがない。
キーを取り出し運転席側に回り込むと、暗闇で何かがうごめく気配がして、心臓が音を立てた。
「あーやっときたあ」
閉ざされたビルのドアの陰から立ち上がった姿を見て俺は驚いた。
沢木カナコ?
いきなり授業後に沢木カナコに切り出された。
俺は教材をトン、と机で揃えてからかばんに入れ、カナコに向き合う。
「俺答え入れ忘れてた?ごめんなー、|β−α|=√5で・・・」
「そういうはぐらかし方するんだ」
カナコの切り口はまるで有無を言わせない。
「はぐらかす?何のことかな」
しらを切り通そうとする俺を下からすくい上げるように見つめ、カナコは悪戯っぽく笑った。
「なるほどね、あしらい方巧いね。それよりこの前また生徒ひとり振ったって噂、ほんと?」
楽しげにカナコはにやにやと問いかける。
「やだな、俺そんなにもてないよ。今日はなに、質問?」
こっちも極上の笑顔で返すとカナコはけらけらと笑ってから言った。
「今日の2番目の問題、ベクトル使わないでこっちで解いてみたんだけど・・」
そう言ってノートを差し出す顔からはもう笑いが引いている。
「ああ、いいね。確かにこの法則も応用できるよ。敵わんな、沢木さんには。俺の授業受ける必要、ないんじゃないの?」
半ば本気で言う俺の肩にぽんっと手を置いて、カナコは微笑んだ。
「あたしの目的は授業じゃないわ。・・・判ってるくせに」
そう言って見上げてくるカナコの瞳は黒くて、濡れた様に潤んだ光を跳ね返している。
これが演技ならすごいな・・。
大抵の男ならのぼせ上がってしまうかもしれない。
ストレートロングの髪を軽く散らした今風のヘアスタイルに小さな顔。すんなり伸びた手足。コントラストの綺麗な黒目がちな瞳もきゅっと上がった口角も、そこいらのグラビアアイドル顔負けの可愛さだ。
ただ、噂だけは色々飛び交っていた。
二股かけて結局両方振ったとか、えらい年上の社会人と不倫しているとか、AVに出演していたとか。
悪意あるなしに関わらず、様々な噂がカナコの周りを取り囲んでいる。
信憑性は疑わしさこの上ないが、それだけ衆目を集めているという証明でもあるだろう。
「わかってるよー、俺に会いに、だろ?ああ、誠意は物で示してね。バレンタイン辺りに。んで質問は?なし?」
わざとおどけるように核心をつくとカナコはつられてうなずいた。
「じゃあまた明日ね。勉強しろよ〜」
ひらひらと手を振って速攻教員室に引っ込むことにした。
幾ら美少女でも生徒は生徒だ。
高校教師などよりはずっと規律は弱いが、一応年頃の子供を預かる塾講師の立場だ。
安易に誘惑にお応えすることはできない。っていうか、駆け引きがめんどくさい。
昨日の小テストの採点でもしよう。
そう思った矢先、政経の谷先生がそばによって来た。
「見ましたよ〜、例の沢木カナコに絡まれてたでしょう?」
まだ20台後半なのにビールの飲み過ぎで出すぎた腹をなでまわす姿を横目で見ながら俺はうんざりしつつ、でも一応愛想良く相手する。
「単に質問ですよ。毎回結構手強い質問してくるんです」
「へええ。僕んとこなんて来たことないけどね〜一回も。中山先生もてるからなあ。一人ぐらい分けてくださいよ」
そのねちっこい口調で延々語るから誰も質問にこないんだよ、と思いつつ俺は自分ができる最大限の笑顔で谷を追いやることにした。
「何いってるんですか。谷先生には可愛い奥さんいらっしゃるじゃないですか。僕だってお帰りなさいって迎えてくれる人、欲しいですよ。羨ましいなあ」
さり気なく持ち上げると谷はまんざらでもない顔で、まあそうですがね、なんて言っちゃっている。
照れ笑いしつつビール腹をひとなでし、谷が去っていく。
ふう、と心の中で一息ついて俺は小テストの束に目をやった。
谷にはお世辞のつもりでああは言ったけど、内心は本気で羨ましかった。
家に帰ればもちろん深久はおかえりなさいって迎えてくれる。
でもそれは恋人や妻としてのそれではない。
そして一生、永遠に続くものでもないことを自分は知っている。
深久に会いたいな・・。
家に持ち帰ってやろうか。
ぐらりと心が傾いて、何とか思いとどまった。
顔を見ればそれだけ辛くなるのは目に見えている。
バイトでハルといちゃついた話を嬉しそうに報告されるかもしれない。そんなもんを聞かされるくらいだったら車で泊まったほうがましだ。
全ての採点を終えたのは小一時間ほどしてからだった。
努めて集中していたせいで吸うことすら忘れていた煙草を取り出し、100円ライターでかちりと火をつける。
相変わらず沢木カナコが限りなく満点に近い点数でトップだ。
小テストとはいえ、国立二次試験向けのハイレベルな問題を出したつもりだったが、これなら危なげなく通るだろう。
教員室でもよく噂に上るが他教科でも同じくらいの出来だというから驚きだ。
俺は心から感心した。
数学バカの自分には到底真似できない快挙だ。
帰ろうと思い煙草の火が消えたのを確認すると
周りを見渡した。気がつけば全員帰ってしまったようで教員室はしんとしている。
鍵を守衛室に預け、駐車場に向かった。
いつもはビルの中を通り抜けて車まで出られるが今日は遅いから表から回り込まなければならない。
10時過ぎていたが、駅からそんなに離れていないこの辺りはそれなりに賑わいを見せている。
向かいのビルに入っているコンビニは明るい光を放っているし、人通りは深夜になっても途切れることがない。
キーを取り出し運転席側に回り込むと、暗闇で何かがうごめく気配がして、心臓が音を立てた。
「あーやっときたあ」
閉ざされたビルのドアの陰から立ち上がった姿を見て俺は驚いた。
沢木カナコ?
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