待ち伏せ。

2003年4月16日
「こんな遅くまで何してたのよ?」
黒のピーコートが闇に同化している。表通りと違いこの駐車場はほの明るく照らす街頭だけが頼りだ。そのカナコの表情は柔らかな笑顔だったので、俺は少し戸惑った。
「沢木さんこそ何してんの、こんなトコで」
「待ってたに決まってるじゃない。あー寒かった。缶コーヒーくらいおごってよ?」
「あのさ・・質問だったら教員室に来るかメール送るかすりゃいいじゃん。こんな所にいたら風邪ひくし、危ないよ?」
そう言うとカナコはまっすぐこちらを見つめ、まばたきもしないで静止した。
「答えてくれないくせに」
返答に詰まると、カナコは俺の腕を取った。
「早く、缶コーヒー。寒くてしょうがないの」

「あったかあい・・」
店に一歩入ったとたん、カナコは嬉しそうに小さく声をあげた。
駅前の24時間営業のドーナツ屋だったがこの時間でも結構客が途切れない。
お土産のつもりなのだろうか、残業帰りのサラリーマンっぽい背広の男性もいる。
ドーナッツとホットコーヒーを受け取って俺は奥の方の席へカナコを促した。
ドアから離れている分暖房が効いているだろう。
「自販機のでよかったのに」
「俺がイヤなんだよ。あんな寒い所で立ち話したくないっつーの。で、何?」
「何でこんなに出てくるのが遅かったのよ?」
「テストの採点だよ。明日返すからさ」
「へえ、仕事熱心ね」
コーヒーを両方の掌で包み込むように持ち、ゆっくりと一口飲んでからカナコは微笑んだ。その頬にはようやく赤みが戻ってきている。
「で、話はそれだけ?」
「うん」
あっさりとカナコがうなずくので俺は思わず眉をひそめた。
「何だよそれ」
カナコは小さく首をかしげ、カップを宝物のようにそっと置いた。
「じゃあ聞いてもいい?」
「何?」
「せんせい、彼女いる?」
「いないよ」
いくらか予想していた質問だったので迷わず答えた。嘘でもない。
「いてもそう答えるんでしょ?失恋した生徒がショックで落ちないように」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
確かにそういう風に気を回すこともある。告白は受験が終わってからにしろよ、と冗談交じりに仕向けることも過去にはあった。
「あたしはそんな事で落ちたりしないし、それに、せんせいはあたしのこと好きになるわ、絶対」
「おいおい・・・」
どこからその自信が出てくるんだろう。確かに非の打ち所はないけどさ。
「じゃあ逆に聞くけど、沢木さんはどうして俺なわけ?」
他の生徒だっていいじゃないか。将来性有望そうな同い年位の子達がそこいらにいるのに。
これだけの容姿なら街で声を掛けられることだって少なくはないだろう。塾講なんてリスクの高い男をわざわざ選ぶ気持ちがまったく理解できなかった。
「簡単になびきそうになかったから」
さらりと手の内を明かされ、俺はつい声を上げて笑ってしまった。
「沢木さんにとって恋はゲームなの?」
そういうとカナコは少し怒ったみたいだった。
「それは違うわ。好きって気持ちがなければこんな面倒なことするわけないじゃない。それに難しい問題ほど燃えるのと同じよ。より高いハードルを越えるのは快感じゃない?」
上目遣いでテーブルの向こうから見上げてくるのを俺は素知らぬ顔でやり過ごす。
「あたし、ハードルが高いヒトが好きなの」
「なら別に俺じゃなくてもよかったろ?」
「ダメ。もう好きになっちゃったんだもん」
子供みたいな口調で言いながらカナコはドーナッツを頬ばった。
「じゃあさ、俺がもし簡単になびいたとしたら沢木さんはあきらめてくれんの?」
「今すぐ本気になってくれるならね」
「なっちゃおうかな」
「無理ね」
あっさり言い放ってカナコは指についた粉砂糖をなめた。
「じゃあどうすれば諦めてくれんのかな」
「あのね、せんせい」
カナコはぐい、と身を乗り出してきた。
「あたしは欲しいものは必ず手に入れるの。例え髪振り乱して勉強しなきゃならないとしてもK大には合格したいし、今日口にした物がこのコーヒーとドーナツだけだったとしても太りたくない」
「つまり何を言っても無駄ってわけ?」
「そ」
コーヒーを飲み干すと、まだ食べかけの俺のドーナッツを一口ちょうだいと断ってからひょいとつまみあげ、こっちにすればよかったかなあ、とつぶやいて結局半分持っていってしまった。
俺は苦笑しながらコーヒーを一口飲んで言った。
「じゃあ俺のことをもっと知りなよ。幻滅するから」
「あら、こう見えても寛容よあたし」
さて、と言いながらカナコは立ち上がった。
「送ってほしいな。終電ってキライなの」

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