唐突にサキが照れ笑いしながら薬指を差し出した。
そこにはシンプルな石がついた指輪が光っている。
「へえ、おめでとう。お相手は?」
「同僚の化学の教師。3つ年上よ。ちょっとだけあなたに似てるかもしれない。・・・なんてね」
少し上目遣いで見つめるクセはあの頃のままだ。
だけど頬にのぼる笑顔は昔みたいな屈託のない、はじけるようなものじゃない。
ほんの少しだけ、俺はそれを残念に思う。
「ならいい男だろ?」
「ばかね」

小さな沈黙が訪れた。
ずっとサキには幸せになってほしいと願っていた。
だから寂しいような気持ちもあるけれど、それ以上に素直な喜びを感じていた。
「サキには随分救われたよ。感謝してる」
「そう?でもあなたは他の人を見てたじゃない。どうなったの、妹さんとは」
責めるのではない口調で聞き、サキはコーヒーを飲んだ。
「何も変わらないよ。・・・何も、変わらない。サキが言った事は正しかった」
(実らないものは実らないの。諦めなさいよ。それがあなたにとっても深久さんにとっても最上の選択なのよ)
今でも耳に残る、あの時のサキの声。
今目の前にいる彼女とはまるで別人みたいだった。
「私たちずいぶん傷つけあったわね」
「そうだな。だけどサキと出会えたことに後悔はないよ」
「私もよ。あなたが私を利用したこと、正しいとは思わない。あの時は許せなかった。でも今は・・・」
言葉を濁してサキは目を伏せた。
長いまつげが影を落とす。
「ねえ、少しは動揺してよ」
「何が・・?」
「結婚なんてしないわ。私も利用してるの。今の彼を」
そう言って見上げた瞳は潤んでいる。
「あなたに嫉妬させようなんて馬鹿なことずっと考えながら今の彼と付き合ってきたわ。どうよ、中山君なんていなくたって私は平気なのよっていつか見せ付けたくて」
でも・・・と再びうつむいて、サキはカップについた口紅を人差し指でぬぐった。
「今日本屋であなたを見かけたら気持ちがふわふわしたの。どうしようもなく嬉しくて、声を掛けちゃったの。だけど声なんか掛けない方がよかった・・」
サキの告白をやるせない気持ちで聞きながら俺は上手い言葉が思いつけなかった。
そんな風に引きずりながら生きていたなんて知らなかった。
むしろ別れて清々してるんじゃないかと考えていた位俺はひどいことをしてきたのに。
「・・俺の中ではサキは大切な人で、幸せになってほしいって思ってる」
「ずるいわ、そういう言い方。自分の関係のないところで幸せになってほしいって意味でしょう?」
「ひねくれた見方するなよ」
「事実じゃない!」
言い切ってから、サキはふっと肩を落としてつぶやいた。
「ごめんなさい。ばかね、私。あなたの前だと鎧が全部脱げちゃうのよ」
「いや・・俺のほうこそごめん。でも俺はサキのそういう所に惹かれてたよ」
むき出しの感情でいつでもあるべき道を・・俺が気づけなかった事実を照らしてくれた。
お互いに初めて弱い部分までさらけだせる存在で、依存しあっていた。
俺は行き場のない感情をサキにぶつけ、彼女は愛されたいという激情を俺にぶつけた。
そんな関係が長く続く訳などないと・・・わかっていたけれど。
「ねえ、彼女はいるの?」
「いや・・・あれ以来誰のことも好きになれないんだ」
「そう・・・」
潤んだ瞳がほんの少し安堵の光に満たされる。
そういう気持ちは俺にもわかる。
「ねえ、もう一度私たち、つきあえないかな?」
俺は驚いて取り出しかけた煙草を落としそうになった。
「何を言い出すんだよ?俺はまだ深久のことを・・」
「わかってるわ。だけど構わないの。私をまた利用してよ。今度は私もあなたを利用するから。ギブ&テイクってよくない?」
「悪いけど・・・」
「悪いけど、何?そうやって逃げ続けてて深久さんのことをいつか諦められる日が来るって言うの?」
「それは・・」
言いよどむ俺をサキが見つめてくる。
その瞳に、吸い込まれそうになる。
「どうせ傷つけあうんだからいいのよ。あなたは私を傷つければいい。私もその分傷つけ返すわ。同じくらいその傷を舐めてあげる。・・・それじゃ不足?」



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